幡ヶ谷のアナ・ウインター
前を歩いていたお婆さんが、春の陽気に誘われたのか、
何やらルンルンと“鼻歌”を歌いはじめた。
むむむ。
それがもし若者であれば、“鼻歌”は、なんとなく想像がつく。
いっても“ピーボ・ブライソン”あたりが関の山である。
だがしかしだ。
世のお爺様お婆様方は、いったい全体、どんな曲の鼻歌を口ずさむ、
いや“鼻ずさむ”のだろう?
大変好奇心をくすぐられた僕は、もちろん後をつけた。
典型的な今風のシティーチャリンコに乗った30代の働き盛りが、
山高帽をかぶり、杖をついて鼻歌を歌う老婆の後を、
ひっそりと徐行して後を付けているのだ。
グリム童話顔負けの、
なんとも春らしい光景である。
こんな白昼堂々男に付けられているとは、思いも寄らないのであろう。
老婆はさっきにも増して意気揚々と、
ごきげんに腕なんか振りながら鼻歌を歌っている。
杖なんていつ投げ捨ててもいいのよと言わんばかりに。
さて、肝心なのは歌だ。
気づかれないよう、気配を消して耳を澄ますと、
「ふふふのふふふのふふふふふ~♪」
どこかで聞き憶えのあるメロディーが聴こえてきた。
「ふふふのふふふのふふふふふ~♪」
「ららららららららららららら~♪」
誰もが幼い頃に歌ったであろう“童謡”である。
なるほど、ご老人にとっての鼻歌ソングは(演歌でもなく軍歌でもなく)、
童謡らしい。(このお婆様だけかも知れないが)
「これが本当のJ-POPです」(92歳・主婦) なんつって。
ただ、なにかがおかしい。
彼女の歌には、桜が咲き始めた小春日和にはそぐわない
致命的な違和感をはらんでいた。
しばらく聞いてみると老婆は、あるワンフレーズだけに歌詞を当てはめ、
その歌を繰り返していることがわかった。
いや、正しく言えば、そのワンフレーズしか、歌詞を覚えてないのだ。
「ふふふのふふふのふふふふふ~♪」
「ららららららららららららら~♪」
この後である。
「たき火だ たき火だ 落ち葉たき~~~♪」
!!!!!!!!?
「たき火」の歌である!
この小春日和の4月初旬に、「真冬」の歌である!
老婆よ! 季節感季節感!
神よ、老婆に季節感を!
よっぽどおれが隣で「春が来た」でも口ずさんで、
春の童謡に無意識に誘導してあげようかとも思ったが、、、
いや、待てよ。。。。
もしかしたら彼女は、こう見えて、かつてファッション業界に
その名を轟かした“重鎮”かも知れない。
彼女はとうの昔に業界を引退し、
余生をつつましく過ごしている元カリスマ女性誌編集長。
普段はそんなことは隠して生きている。
だが、“職業病”だけはなかなか抜けない。
春夏シーズンには、次の秋冬、秋冬には、次の春夏と、
つい次のクールのことを考えてしまう。
今が春であれば、つい鼻歌も秋冬のものになってしまったのだ。
それなら合点がいく。
彼女が歌ったのは、ただのたき火ではない。「2016AW」のたき火なのである。
そんな僕の妄想をよそに、幡ヶ谷のアナ・ウインターは、
延々と「たき火」を熱唱し続けている。
このままだと、家に着くやいなや、実際にお庭でたき火をしてしまうかも知れない。
「春にたき火をする老婆」。
なかなかのシュールレアリズムである。
ただ、そんな彼女を“季節外れ”だと笑ってはいけない。
冬に半袖ワンピで撮影するモデルのように、季節を先取しているのだから。
それは、「2016AW」のたき火なのだから。